南アフリカで撮影した写真を見直して、今更ながら、気がつきました。何百年も姿を変えていない自生のストレリチア。かたや、公園に植えられた人手の加えられた、数十年ぐらい経過した肥満、密生したストレリチア。どちらも同じストレリチアでありながら、姿が違っているのです。自生株は隣同士、適当な間隔で並び立っているのに対し、人が植えた株は、ぎゅうぎゅう詰めの密生で、押し合い、へしあいの有様です。
同じ地域に生活しているのですから、気候の影響ではありません。かたや自然、かたや人工の差で、考えられるのは水と肥料分しかありません。この場合、水は生きてゆくための役割とは別に、土の中の肥料分を溶解して吸収しやすくする働きで、同じ土であっても、水が多いほうが多くなります。
私たちの畑や庭、鉢の中の土は、贅沢とさえ言えるほどの養分が与えられ、その上、十分過ぎる水もあるので、正常を越えて肥満になる要素に満ちています。片や自然の自生地では、生きてゆくための最小限の物質しかありません。この違いが姿に表われているわけです。
写真の風景は、今まで、散々、見てきているのに、その違いを改めて強く感じているのは、私の関心の持ち方が変わったからでしょう。現在の私は、ストレリチアの理想の姿、あるべき形を求めようとしているのです。自生のストレリチアのスリムでスッキリした姿に憧れを感じますが、でも、禅僧のように、なにごとにもとらわれない無欲な佇まいには、そこまでは、との戸惑いがあります。あまりに孤高では、一緒に生活する楽しみが薄いように思われるからです。だからといって、見るも無惨に肥満した家畜は、人間の利用目的には便利かもしれませんが、共に生きる伴侶に相応しいとは思えません。足して2で割る、程度がよいのではないでしょうか。ストレリチアは環境条件によって変化してくれますから可能でしょう
とはいっても、実際には、ことは簡単に運びません。放っておけば、みるみる内に繁茂して,姿が乱れてしまいます。これからのストレリチア栽培技術は、これに、どう対処するかが問題になると思っています。