ストレリチア秘話No.630 ストレリチアが人に望むもの?

 前章 No.629にて、人がストレリチアと付き合うのは簡単ではないと述べましたが、その理由について、詳しく書きませんでしたが、それでは説明不足であることに気づきましたので、改めて深入りしてみようと思います。何しろ、これこそが重大な問題になるからなのです。

 先ず、簡単に言えばストレリチアは人に対して、「私たちを、ただのストレリチアとしてだけの扱いをされるのは嫌なのです」と誇り高い気分があるのではないでしょうか、と思えるのです。これはストレリチアという植物が、いままでの常識をこえた見識があるとの考え方ではないだろうか、との見方をされるおそれがあるかもしれませんが

 でも、私から見ると、こう考えた方が理解がしやすい情況があるのです。ストレリチアの栽培が始まった初期の頃は、性能はまだ原種そのままで、決して優れたものとは言えなくても、何とか社会に認められ維持することが出来ました。

 所が、世の中の情勢はいつまでも同じ事が続くのを許してはくれません。それなのにストレリチア関係者は、ずるずると続けてきてしまったのです。それにはストレリチアの持つ特性が関わっていました。

 それは大した面倒を見てもらえなくても十分に生きてゆける強さを持っていたことです。この永年作物の特性にストレリチア関係者は寄りかかってしまったのです。実は、例え植物であっても時代の流れに沿って進歩しなければならないのに、放任を続けてしまったのです。これは今でも目にすることが出来ます。私の栽培場ではストレリチアを60年以上も続けてはいるものの、その間に大きく分けても3回も入れ替えが行われています。つまり、どこを探しても昔の品種は見つかりません。それ以上なのに切り花農家の殆どが何十年も前の品種の栽培を続けているのです。

 昔ながらの伝統が必要とされながらも、次々と惜しまれながらも消えてゆく時代です。しかし、ストレリチアは次の時代を背負う品種は既に登場しているのに、まだ古い品種が残っているのです。ここにストレリチア業界の困った点があると見ています。これでは将来の見込みが持てません。ストレリチアという植物が優れた人物に期待をかけるのは当然といってもよいのではないでしょうか。

 私はストレリチアを擬人的に見て論じているわけではありません。こう進まないと世の中の流れから取り残されるのではないか、との思いからなのです。これは何も業界だけのことではありません。趣味の世界も同じなのではないでしょうか。

 では、いったい、どういうわけで、こんなことが起きたのでしょうか。ものごとが起きるには、それなりの理由がある筈です。ストレリチアの栽培が始まったころは、ストレリチアのレベルが低かったとはいえ、最新の珍しい植物であったことは確かですから、其れに対応出来るだけの人物でなければならなかったはずです。

 でも初めの頃は、珍し物好きだけでもよかったのです。何しろストレリチアそのものが、未だ素朴で難しい知識を必要としていなかったからです。所が、時代が進むにつれてストレリチアの水準も上がってきたのです。こうなると両者の水準が合わなければならなくなってきたのです。勿論、現代の愛好者のレベルは高くなってきてはいますが、困るのは古くからの人が、未だ残っていることです。しかもストレリチア自身もの凝っているのです。

 この問題の整理には、まだ時間が掛かることでしょう。